八月に寄せて、平和の片隅で思うこと

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毎年この時期になると、有名なフレーズをよく目にします。
「戦争を知っているやつがいるうちは日本は安心だ。戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い」

田中角栄元首相が残した言葉です。
痛みを知っているからこそ、二度と繰り返さないという強いブレーキになる。

その心情はよく理解できます。
しかし、私はこの言葉を見るたびに、どうしてもひとつの疑問を拭えません。

「では、あの戦争を始めた人たちは誰だったのか?」

彼らは決して戦争を知らない世代ではありませんでした。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争と、すでに幾度もの戦争を経験し、その現実を知っていた人たちでした。

悲惨さを知る当事者でありながら、一度味わった「戦勝」という甘い蜜を守るために、国家は更なる戦争を選択し続けたのです。

日本は「唯一の被爆国」として被害を語ることも多いです。
しかし、日本軍もまた明確な軍事利用の意思を持って原爆の研究開発を行っていたことも報告されています。

「加害者」になったアメリカと「被害者」になった日本の違い。
それは道義的な差ではなく、国力による差に過ぎないのではないでしょうか。

さらに言えば、米本土をはじめ世界各地での核実験による被曝被害の歴史や、チェルノブイリの事故を見ても、核の恐怖は決して日本だけの専売特許ではないことは明らかです。

また、現代の平和教育についても違和感を覚えます。
過去の日本の過ちや被害を学ぶことも重要ですが、なぜいつも第二次世界大戦の回顧だけで終わってしまうのでしょうか。

いま現実に起きているウクライナ侵攻や世界各地の紛争、そして急速に戦場を変えつつある安価で冷酷なドローン兵器の脅威など。
本来学ぶべきは、過去の情緒的な反省だけでなく、国家間の緊張関係がどのように生まれ、どうエスカレートしていくのかという地政学や国際関係のリアリズムであると思うのです。

「戦争を知らない」私は、こう思います。

現実を知る者が、平和を守るのではない。
戦勝による果実を知る者こそが、戦争を合理的な選択肢として蘇らせるのだと。

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